徒然あじさい日記

言の葉を綴ります。

フジファブリック志村さんの故郷富士吉田の旅

2020年6月26日午前、気付けば私は山梨県の富士吉田にいた。家から片道9時間の電車旅はただ揺られているだけであっという間で現実味がなかった。当日の朝思い立って家を飛び出したはいいものの、新幹線に乗ってから焦った。しかし切符代一万六千円は私にとっては高くもったいないのでそのまま乗ってしまった。途中乗る電車を間違えながら着いたのは午後五時。適当にホテルに泊まって寝たり起きたりを繰り返していた。

 

この時の精神状態は大概よろしくなかった。新型コロナウイルスの影響でせっかく入った大学はオンライン授業でつまらないこと極まりなく、現実逃避して京大文学部再受験するだの夢を追いたいだの散々悩んで周りを困らせ、悩みすぎの寝不足で頭痛がしていた。唯一応援してくれそうな祖母宅に家出したが万が一コロナを移してはいけないと追い出され、反対気味の親と口喧嘩をしたばかりで帰りたくなくて、そうだ、志村さんに会いに行けば何かが変わるに違いないと思った。東京は感染者がいたから、甲府経由で行けばいいとひらめき、実行に移した。

 

そこまでして行きたい富士吉田に何の意味があるのか、不思議に思う人に説明すると、フジファブリックというバンドの作詞作曲ギターボーカルを務めていた志村正彦さんの故郷が山梨県富士吉田なのである。志村さんは29歳という若さで亡くなってしまった。

志村さんの良さは、情緒的な歌詞と曲、そして悩みながら歩く姿だと簡潔に言えばそうなるのかもしれないけれど、それでは全然足りない。彼は故郷を愛しその情景を多く描いている。その景色ひとつひとつが私たちの脳裏に鮮やかに浮かび離さない。ぜひ陽炎という曲を聴いていただきたい。誰しも小学生の頃に友達と駄菓子屋に寄って公園に行く経験をしたことがあると思うが、「駄菓子屋にちょっとのお小遣い持ってこ」という歌詞はその懐かしい幼少期の体験がありありと蘇ってくる。また、若者の全てという曲では、「すりむいたまま僕はそっと歩き出して」という歌詞から、悩みながら歩こうというメッセージに励まされてきた。志村さんというのは私にとってそういう存在なのである。

 

さて、月江寺駅について道を間違えながら富士山を眺めお墓参りをしてきた。志村さんの好きなコーラと人形と手紙を持って。志村さんの死を受け入れるのはとても難しかった。志村さんを知ったときにはもうすでにこの世にいなかったのに。それから、だらだらと炎天下の中熱中症になりながら街を歩いて、通っていた小学校、遊んでいた公園、お気に入りのパスタ屋さん、夕方5時のチャイムが聞こえる市役所、通ってた高校、バイト先のピザ屋さん、念願の市民会館ライブ会場。実感がなかった。でも、曲の中で描かれていた街とはこんなところなんだな、と思った。曲を聴き直すと明らかに解釈が変わった。あの街なんだな、ととても身近に感じるようになった。

 

何を学んだか、というと、全然そんな大層なものはなく、ひとり夢を叶えるぞ、と決心しにいくつもりが、周りの現実を生きるべきだとかそんなのを通り越して、ま、いっか、って。どっちでもいいやって。なぜか開き直ってしまった。それくらい志村さんの故郷や死は私には大きすぎた。帰り道、爽やかな風を感じた。本当に収穫はそれだけなんだけど、来てよかった。むしろ、予想以上に大きすぎる収穫だったかもしれない。ひとつ大人になった気がした。自分の悩みがちっぽけに見えた。

 

志村さんに憧れて、志村さんのようになりたいと思ってきた。でも、お母さんと電話していて、志村さんはそれを望んでないよね、むしろ、日常を生きる人々を応援してるんじゃないのって。自分の夢は有名になりたいといった名誉欲から来るものだったことに気付き、酷く恥じた。口喧嘩していたお母さんのことを許せた。

それに、ひとり山梨まで飛び出して感じた孤独感や恐怖は、周りを振り切ってひとり夢を叶えるとはこういうことではないか、と感じ、すごく怖くなった。それで、嫌々ながらも母に電話したら、なんとなく許せて、ひとりじゃない、現実を生きようと決心したのだった。

 

今は昼熱中症を冷やすためにホテルで休みながらこれを書いてる。今から富士山観光をして、夕方バスに乗って市役所のチャイムを聴き、夕日を見て帰ろうと思っている。

ここまで読んでいただき感謝申し上げる。

 

紫陽花より