フジファン紫陽花の夢が見つかりました。
フジファブリック志村正彦さんの故郷、富士吉田への旅から帰ってきた紫陽花です。
山内さんの手紙を聴きながら、これを書いています。
旅の最後の締めくくりとして、この旅で見つかった夢について語ろうと思います。
その前に初めて読まれる方はフジ旅関連の前記事を読んでいただいてから本記事を読んでいただけると嬉しいです。
志村さんへの手紙をここに書きます。
志村正彦様
貴方を知ったとき、すでに貴方はもうこの世にはいなかったけれど
貴方の故郷の地を歩いたら 貴方は今もここに生きているような気がしました。
貴方の大切なメンバーは今もフジファブリック を続けていますよ。
そして、かけがえのないファンの方々も歌を聴きフジファブリック を応援し続けていますよ。
私はフジ喫茶を開きたいという夢を持ちました。
富士吉田に来られた方々が集まって語ったり歌ったりできる場所。
そして私はその二階に住んで富士吉田での暮らしをファンの方々と共有したいと思っています。
それは、
「さよならだけが人生だったとしても
〜中略〜
旅路はこれからもずっと続きそうな夕暮れ」
(フジファブリック 手紙 より)
なのだと思っています。
貴方を始まりとしてみんなで繋いでいく旅路はどこまでも続いていくと信じています。
紫陽花より
最後までフジ旅行記を読んでくださりありがとうございました。
フジファブリック・ストーリー1
茜色に染まりつつある夕日を眺めながら午後六時のチャイムに耳を傾ける青年。遠き山に陽は落ちてのメロディが今日はなんだか胸に響いて。そして、今ではそのメロディが誕生日と命日に貴方の曲になっていますよ、と告げる。彼の故郷、富士吉田の悲しくも優しい物語。
この世のアーティストの中でファンがこれほど故郷に来るのは彼くらいなのではないだろうか。故郷を愛してやまなかった彼の生きた街がほとんどそのまま残っている。下吉田てくてくマップというものがあって、それを見ながら彼の跡を回っていく。お墓参りをして、彼の念願だった市民会館でのライブ会場を訪れ、市役所のチャイムを聴いて帰る。
彼は若くして亡くなってしまったけれど、作詞作曲ギターボーカルがいなくても、メンバーはフジファブリックを続けた。このことは彼にとってどれだけ嬉しいことだろう。メンバーに愛され、ファンに愛され、彼は生きた。その証がここにはある。
この続きはまた。
紫陽花より
フジファブリック・ファンのかたち。
フジファブリックのミュージックビデオを見て魅了されたフジファンの卵の方々に向けて、私のフジファンの道を書かせていただきます。参考までにサラッと読んでください。
私がフジファブリックを知ったのは、入った大学の軽音サークルが過去に茜色の夕日をコピーしていて、それをYouTubeで見たのがきっかけでした。初めて聴いて、素直に良い曲だなと思い、フジファブリックかぁと思って検索した記憶があります。私は飲み込みが遅いので、その時にはすぐに理解できませんでした。しばらく経って仲良くなった人がフジファブリックの若者のすべてとgreen birdを薦めてくれて聴いたのが決定的でした。その時にはもうフジファブリックの虜になっていました。
毎日お気に入りのフジソングを繰り返し繰り返し聴いてミュージックビデオを見ては志村さんイケメンだなぁと思っていました。
ある時、コロナで寂しくなってツイッターアカウントを作ったのですが、自己紹介にまずフジファブリック好きと書いてフジファブリックの字を見たらフォローしていると、いつの間にかフジ垢が出来上がっていました。フジファンの方はとても優しくメッセージをくださります。フジファンの方々と交流していく中で心の通じ合う世界があることを知りました。
そうしているうちに別記事に書いた理由でほとんど曲を聴けていない上に知ってから2ヶ月という短さで志村さんの故郷富士吉田に飛び出してしまいました。その感想は別記事で読んでいただけると幸いです。
もしツイッターをやろうかなと思っていたら、ぜひフジ垢作ってみてください。そこにはフジファブリックの優しい世界が広がっています。
そこで、フジファブリックにいつからハマったとか、どれだけ曲を聴いているかは気にしなくてもいいと思います。私なんか初心者中の初心者ですから(笑)でもフジファブリックを愛しています。そしてまたフジファブリックを愛している貴方とお会いできることを楽しみにこの文章を終わらさせていただきます。最後までありがとうございました。
紫陽花より
志村さんの死とはどういうことなのだろうか
フジファブリックファンの方からメンバーの山内総一郎さんの「手紙」を薦められて聴いてみた。
私が志村さんを知った時には既に亡くなって10年も経っていて、しかも29歳という若さで亡くなってしまい、このことをどう解釈していいか見当もつきそうがなかった。
富士吉田に行って、志村さんをより近く感じられ今もそこに生きているんじゃないかとさえ思った。泣きながら街を歩くはずが、なぜか爽やかな気持ちだった。
しかし、帰って手紙を聴くと、志村さんの身近にいた山内さんの愛が感じられ、志村さんの死とはこういうことだったんだ、と息もできないくらい泣いた。ファンとして遠くから眺めているのと、バンドメンバーとして身近に接してきたのでは、また違うのだと気付いた。志村さんが生きていた頃から知っていたファン、志村さんと共にいたメンバー、志村さんを死後に知ったファン。それぞれに思いは違うけど、志村さんを愛していることは同じだと思う。
どうして家族の死より志村さんの死の方が大きいのか分からなかった。
志村さんのファンは優しい方々が多い。そして、山内さんは志村さんに優しい手紙の曲を歌った。きっとそれは志村さんがとても優しさに溢れた人でたくさんの人に愛されてきたことの証なんだと感じた。
フジファブリック 手紙より
さよならだけが人生だったとしても。
(中略)
旅路はこれからもずっと続きそうな夕暮れ。
志村さんとフジメンバーとフジファンと悩みながら楽しみながら歩く旅路はきっと永遠なのだと信じている。
紫陽花より
フジファブリック志村さん富士吉田旅2
前作フジファブリック志村さん富士吉田旅を読んでいただいてからこの記事を読んでいただけると嬉しいですが、これだけでも読み応えのあるよう頑張って書きます。
午後、河口湖駅で降り、バスでハーブ園に行き、ラベンダーと富士山、そして湖を眺めた。途中博物館やロープウェイ、ホテル、レストランなど、綺麗な観光地をいくつも通り過ぎた。どこも綺麗すぎた。インスタ映えしすぎた。本当に志村さんの故郷から数駅なのか、と疑うほどだった。悲しくなった。そして、同時に志村さんの故郷の街がほとんどそのまま残っている奇跡を知った。
観光地は有名になると整備され世界観が壊れることは多々あると思う。人々に知られてお金が入るのはいいけれど、そのものの良さが損なわれてしまうと本末転倒だ。どうか、志村さんの街が残っていますように。
そして、ただの観光旅行とこの旅は全く違った。音楽の世界観を知るだけではなく、自分の中の学びが大きかった。詳しくは前作に書かせていただいた。
こういった旅を今いる観光学科で研究したいと思った。私の夢がひとつでき、それは今いるところに結びつくものだった。
最後に、富士吉田市役所へ向かった。午後6時の遠き山に陽は落ちてのチャイムを聴きに行った。志村さんが聴いていたチャイムを聴いて、転調したと思われる所がとても胸に響いた。今もその音が頭の中を流れ続けている。帰り道、微かな夕日を見ながら、志村さんに別れを告げた。
今はこれ以上のことは書けなさそうです。
ここまで読んでいただきありがとうございます。